田中清玄への感謝
田中清玄とは如何なる人ぞ。日本史において未経験の敗戦という危機に、その時代を導くために激しい修行に打ち込み終戦の道筋を山本玄峰老師指導の下に、
胆
力・腹を練っていたのが田中清玄氏である。否自己の探求に打ち込んでいたのである。奇しくも無血開城の立役者・山岡鉄舟が禅を修行をされた三島の竜沢寺で
あることも不思議な因縁である。禅の力が何時も日本の危機に働いている。学者は役に立たないことは吉田松陰が一番よく知っていた。松陰門下で学者になった
人はいないのはそのためである。
敗戦の道筋が整い成功し、昭和天皇陛下が終戦直後の12月21日、39歳の田中清玄氏の意見を求めたこの一事で彼が終戦を正しく導いたことが証明され
た。
そして彼の陛下への進言は総て採用された。しかし、このことを清玄氏は語ろうとしなかった。胸に秘め田中清玄氏がその後命のぎりぎりのところを生きるのを
知るのである。玄峰老師と鈴木貫太郎、吉田茂だけに伝えたという。(田中清玄自伝p147)その後も陛下は「この問題を田
中はどう言っておるか」と入江さ
んにきいてくるのでよく二人で話した、という。
しかし彼の戦後の一番の功績は山口組田岡一雄氏とのコンビで「麻薬追放・国土浄化連盟」を作り会長松下正寿立教大学総長をすえ、山岡荘八、福田恒存、市
川
房枝などに加わってもらい、児玉・岸信介たちの資金源を断ち切る運動をやったことだろう。(田中清玄自伝p185) 確か
に麻薬は山口組が田岡一雄氏の時
代は殆ど蔓延していなかった。問題にもならなかった。今はひどすぎる。
司馬遼太郎の友人直木賞作家胡桃沢耕史氏が書いている。
「岸信介が一度、猫目石で税関につかまった話を覚えている人がいると思います。あれは実は税関と司法取引をやったのです。お蔭で〇〇が岸の二号だと
い
うことがはれてしまいました。しかし、あれもしょうがなかったのです。これには実は拓大生もかんでいまして、クニマツ君と同級のカナ何とか君というのが
ちょうど向こうにいたころですが、岸信介のお土産に、岸は満州国官僚だから、丸いハッシッシをあげたのです。満州国官僚は、大平もそうだけれども、満州国
の総務院にいた人間はみんな阿片の癖がついていて、あれは少し休むときついのです。これをあげたらたとえ元総理大臣でもえらいことになります。そこで税関
が司法取引をして猫目石の話にして、〇〇の存在がばれてしまってもしょうがないとなったのでしょう。」
(世界の中の日本Zp15-16拓殖大学刊)
胡桃沢氏のこの話は私にはよく分らないが堂々と大学で講演をしているので自信があるのだろう。田中清玄氏が麻薬で日本をだめにする河野一郎・岸・児玉と
の
戦いをしたために銃弾を浴び死ぬところだつたのも事実である。田中清玄自伝は日本史の貴重な勇者の証言でもある。
「俺が岸と決定的に対立したのは、彼が戦前は軍部と結託し、戦後はGHQや国際石油資本の手先となって、軍国主義に覆いつくされた戦前のような日本を復
活
させようとしたのが、最大の理由です。このような岸の意図を見抜き、彼に真っ向から立ち向かって、岸の体制を壊そうとしたのは、俺一人だ。」(田中清玄自伝
p327)
『かって先帝陛下は瀬島龍三について、こうおっしゃったことがあったそうです。これは入江さんから直接聞いた話です。
「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし、許しがたいのは、この戦争を計画し、開
戦
を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避を行っている者で
ある。瀬島のような者がそれだ」(p329)
陛下は瀬島の名前をお挙げになって、そう言い切っておられたそうだ。私のみるところ瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀実は感じが同じだね。』(p329)
ー話は飛びますが、安岡正篤氏とはお付き合いがありましたか。
全然ありません。そんな意思もありませんしね。私が陛下とお会いしたという記事を読んで、びっくりしたらしい。いろいろ手を回して会いたいといってきた
け
ど、会わなかった。天皇陛下のおっしゃることに筆を加えるような偉い方と、会う理由がありませんからと言ってね。私には自己宣伝屋を相手にしている時間の
余裕などなかった。」(p149)
此話は誠を吐露している。乃木大将が独眼であったことを生涯隠されていたが、晩年テント造りをやっていた時かなんかに頭をぶつけたのをおかしいと気づい
た部下に見破られてしまったが、幼年時の母親のミスを母親にすら隠し通し気づかれなかった子供が乃木さんであった。安岡先生も沈黙してもらいたかった。義
命とかなんとか繰り返し言っていたがでは何故変えられないようにするだけの智慧が無かったのか。自分には責任はないのか。絶対にいぢるなと其時言ったの
か。詔勅には沈黙すべきだったと考える田中清玄氏の感じ方が正しいのである。
山本玄峰老師の指導が厳しいことは後継者中川宋淵老師が竜沢寺を三度退散していることでもわかるという。(回想-山本玄峰p104春秋社刊)
『ある坊さんが、老師の大喝に卒倒するのを見たこともあります。一喝しただけで人間が一人ぶっ倒れるんですから大変な迫力ですよ。
ー本当ですか。
ええ、本当ですとも。私の目の前で起きたことですから。
「臨済の一喝、あるときは人を殺し、あるときは人を活かす」
と言いますが、まさにその通り。活殺自在だ。』(田中清玄自伝p118)
尚、以下、雑誌「経済往来」(昭和64年1月号・対談ー浅野晃/田中清玄)で田中清玄氏の龍澤寺での修行がどのようなものであったのかの一部をここに引
用
させて頂く。
『この当時、日本の負ける前後、俺の最も全心身の総力を集中した主な仕事は、玄峰老師の防衛と、老師と日本の最高の人達との連絡だった。鈴木貫太郎さんや
なんかは、本当に命をかけられて、日本の戦争終結に御努力なされておられた。
昭和十九年の秋深まりゆく頃であったが、当時、天皇陛下の御生母でいらっしゃる貞明皇后様が、沼津の御用邸に御滞在なさって、度々玄峰老師に御相見なさ
れ、日本の命運に就いて御話しなされた。この頃は、戦局が全面的に決定的に不利で、日本の敗北は国民の眼目にはっきりとし出しておった。
玄峰老師は、貞明皇后様も天皇陛下同様、大東亜戦争とその終結に就いて如何に御苦労なさっておられるかを、私に、
「今上様も貞明様も、戦争を続けて、これ
以上国民に迷惑をかけるに忍びない」
と、えらい事御憂慮なされておられると、一切ならず洩らされた。
特に、明けて昭和二十年の一月中旬の、「臘八接心」三日目早暁の三時の入室参禅に際し、玄峰老師はこの私に
「今日の公案は日本はどうするかじゃ。さあ。さ
あ。」
と突きつけ、迫ってきた。咄嗟に、私は
「日本は戦争を止める事だ」
と断じた途端、玄峰老師は
「どないして戦争をやめるんや」
と真っ向から切り返して
来られた。一瞬たじろいだその瞬間、老師は、
「そんな甘い事じゃ何も出来ん。練り直して来い。」
と突き返された。
徹宵徹夜の打座後、更に三日目の深夜、再び玄峰老師に入室参禅した。拝を終って、老師と対座するなり、老師は、
「日本をどうするかじゃ、さあ言い、さあ言
い、」
と迫って来た。老師のその圧倒するような気迫を受け止めて、私は全心身に渾身の力を込めて、立ち上りざま、
「日本は戦争に負けて国を救うしか道はあ
りません」
と心魂を吐露した。
老師は、私の見解など吹き飛ばして喝破された、
「日本は戦争に負けて国を救わにゃアカン。やれ聖戦完遂じゃ、本土決戦じゃと、我慢や我見に囚われていたな
らば、日本は国体を失い、国家は壊滅し、国民は亡国の民となるぞ。今からでも遅くはない。日本はグズグズせずに無条件で負けるのじゃ。どうだ御前やれる
か」
と、獅子吼された。その途端、小柄な玄峰老師が庵室内一杯に立ちはだかる巨人の如くに見えた。
私は全心身につき貫ける霊力を感じ、老師に対座して拝をした時、よし、自分は、生も無けりゃ、死も乗り越えて、日本の無条件敗北による終戦を目指して戦
う
という決心を老師に告げて、庵室を辞去した。
それからが大変であった。
今上天皇陛下に、玄峰老師の意見を誰が如何にして御伝え申し上げてご嘉納頂けるかは、これまた最も重大な任務であるだけに、その衝にあたられる方は、皇
室
では貞明皇后様であり、民間では二・二六事件で反徒の凶弾を四発も受けられて今もなお屈せられずに天皇陛下と日本を護り通された鈴木貫太郎さん以外に無い
と信じておりましたので玄峰老師の喝破を、鈴木さんの心底に納めて頂く事に決心してその実行に本当に苦慮した。
事、他に洩れたならば、私は勿論軍部に殺される事は明々白々であるし、事態は玄峰老師の御生命も勿論危ない。鈴木貫太郎さんも然りだ。』ー以下省略
禅の修業のなかで田中清玄氏が掴んだ信念が大きく働く時が彼の「それから」であった。本当に彼は生死を超越したのだろうか? 確かに銃弾をあびても清玄
氏
の戦いはびくともしなかった。勇気ある人が、臘八接心のなかで鍛え上げた信念の人がいて、
戦後の若者のために良き戦いをしてくれたことを私は忘れることが出来ない。修行しただけの仕事しか人は出来ないことを清玄氏は示現示教した。
昭和天皇の昭和41年の御製「声」に次のうたがあるが、「日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる」、まさに山本玄峰老師と弟子田中
清
玄氏は大御心に応答し日本の不滅の歴史となつた。
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